女神が微笑むとき
崩れ落ちる床、その中にいる大事なひと、その光景に彼はきっと何かを考えるより先に身体が飛びついていた。あのとき掴めなかった手を、今度こそ。そんなことを考える余裕があったのかはわからない。わずかに聞き及んでいただけの彼の事情を考えると、必死になるのも道理だろう。
「絶対離さないぞ! 絶対に!」
多分、ケフカや三闘神と戦っていたときより必死な形相をしていた。応えるように力強く握り返された手の温かさ。やっとの思いで引き上げた彼女の手には、一枚のバンダナが握られていた。彼女が命の危険を冒してまで取りに戻ったものを目にした彼は、一瞬泣きそうな顔をして、彼女を怒鳴りつけた。彼女も泣きそうな顔をして、バンダナを胸の前で抱きしめるようにぎゅうと握りしめた。
「だ、だってロック……」
「……いくぞ、セリス」
後ろ手に出されたロックの手をしっかりと握って、子供のように泣きじゃくりながら後をついていくセリスの姿を見届けて、セッツァーは再び踵を返した。あのセリスがあんなに泣いているところは初めて見た。
「ロック、すき、……すき」
「うん、……わかってる」
涙に濡れたセリスの声を大股で遠ざけながら、セッツァーはふっと笑った。
「よかったの? 傷男」
「人の名前ぐらいちゃんと呼べ」
「だって傷男は傷男だもん」
瓦礫の山の陰からぴょこりと顔を出したリルムが、セッツァーの隣でうろうろとまとわりつく。はあ、とため息をついた。一歩遅れれば崩壊に巻き込まれるかもしれないというのに、この娘は危機感があるのかないのか。
「ねえ、傷男はセリスのこと好きだったんじゃないの?」
足下の瓦礫を身軽な動きで飛び越して、リルムが問いかける。視線だけをちらりとやれば、ロックの後を追うセリスの姿が視界に入る。ふたりの距離はほんの五分前より更に二センチほど縮んで見えて、どうやら幼いリルムにもそれははっきりと伝わっているらしい。
「さあな」
「俺の女になれ、ってセリスに言ってたんでしょ?」
「あの賭けは俺が負けた。だから俺はこんなところにまで来て、一歩間違えたら死にそうな目に遭ってんじゃねえか」
「でも」
リルムは何となく承服しかねるような表情を見せている。リルムにはそう見えていたのか、と何とも言えない気分になる。
セリスを好きだったのかと聞かれると、どう答えていいのかわからない。気に入っていたのは確かだ。容姿は好みだし、本物のオペラ歌手と遜色ない歌声も魅力的だ。何より、ギャンブラーである自分に対して我が身をベットにして賭けを持ちかけ、イカサマがバレても「イカサマもギャンブルのうちでしょ?」などと悪びれもせずに言ってのけたその度胸。後に帝国の常勝将軍と知り、なるほどなと納得したものだ。
確かにセリスに対して「俺の女になれ」という旨の発言はした。そこから何かが芽生えていたのか、という話になるとそれは違うような気もする。一夜の恋人としてならお相手願いたいという気持ちはあった。いや、セリスほどの上玉であれば一夜と言わず何夜でも飽きなかっただろうなと根拠のない予感はある。今でも。
とはいえ、それ以上でも以下でもない、ということはまだ子供のリルムにはどう説明したところで理解してはもらえないだろう。というより、そんな話を理解できるのは仲間内にはいないだろう。いるとすれば女好きの砂漠の国王ぐらいか。
「好きなように捉えろ。俺はどっちでもいい」
そう言うのが精一杯だった。崩れ落ちる塔の中で、ああだこうだとぼんやり考えている暇はない。惚れただの腫れただの、夢も希望も何もかも、そんなことは全て生きていてばこそだ。
――答えを出す気は、ないが。
リルムが一瞬、何かを堪えるように口唇を噛んだ。
「今は違う?」
「それもお前が思いたいように思え」
「諦めちゃうの?」
「……賭けねえ奴に、チャンスなんか一生来ねえんだよ」
半分は自分に言って聞かせた。セッツァーは賭けなかった。セッツァーはギャンブラーで、スピードとスリルが何よりも生き甲斐だったはずなのに、気付けば時間が止まっていた。スピードを忘れて、いつしか飛ぶだけになっていたブラックジャック号。無限に広がる空は、いつの間にか亡くしたものをただ想起させるだけの何もない空間と化していた。
賭ける気なんか、最初から起きなかった。目を見ればすぐにわかった。あと十年、いやあと五年でも若ければ、きっと賭けただろう。たとえ最初から負けることが確定していたとしても。それを諦めたと言うのであれば、きっとそうなのだろう。
「まあ、仮にそんな感情持ってたとしても、俺は賭けなかったんだ。それほどじゃなかったってことだな」
「そっか……難しいなーオトナは」
「そうでもねえさ。いつかお前には、自分の全てを賭けてでも手に入れたい奴が現れるだろうよ」
「傷男にはいなかったの?」
「そんな女には出会ったことがねえ」
崩れてきた瓦礫から、リルムを庇おうと咄嗟にコートの中に抱き込む。
自分の全てを賭けてでも手に入れたかった空もスピードも、手に入らなかった。それに匹敵するような女には出会ったことがない。もし出会えば、自分はどうするのだろうか。
抱き込んでいたリルムとふと視線が合う。グイ、と襟を引っ張られて小さな口唇が一瞬触れ合った。
「な」
「リルム、難しいことはわからないけどこれだけはわかる。リルムはもう出会ってる。だから、賭ける。決めた」
「お前……」
「だから、置いてかないでよね!」
それだけ言って、勢いよく駆け出したリルムの背中を呆然と見送るしかなかった。一生の不覚と言えよう。
「……は、ガキがいい度胸してやがる。よりによって俺かよ」
若いというより幼さか。それだけで実に微笑ましいものだなと笑いがこみ上げる。いつかリルムが本当の相手に出会うその日まで退屈しのぎに付き合ってやるのも悪くない。
「せめて変な虫の見分け方くらいは教えといてやるか」
そう呟いて、セッツァーはリルムの後を追った。
……彼が賭けることを決めたのは、それから8年後のことだった。文字通り全てを賭けて、ちょっとしたイカサマを仕掛けた。奇しくもあのときのセリスとは真逆の目的で「イカサマもギャンブルのうち」をやることになったのは皮肉なものだ。だが、それでも手に入れたかった。そういう気持ちにさせられた。
「ほんとお前はいい度胸してるよな」
「何のこと?」
ふわふわの短い髪をくるくると弄びながらひとりごちると、リルムがこちらを見上げてきた。
「本当に俺なんかに自分の全てを賭けやがった上に、持って行ったことだよ」
そのままリルムを抱きしめると、柔らかな肌がしっとりとセッツァーの肌に吸いついた。傷だらけの自分とは対照的に、傷ひとつない白い肌はいつまでも触れていたくなる。
「だって、傷男が言ったじゃん……。賭けなきゃチャンスは来ないって」
「フン、そりゃギャンブラーの常識だ。だが、勝ち目があるかもわからねえのに一切引こうとしなかったその度胸は称賛に値するぜ。だから、俺も賭けてみたくなったのかもしれねえ」
「そりゃ引きたくなったときもあったけどさあ……」
「引けなかったんだろ」
「うん」
胸にすりすりと顔を寄せられて、セッツァーは笑った。
「だって、リルムはセッツァーを好きになるばっかりだったもん」
「今は俺もそうだな」
「そうなの? うれしい」
もぞもぞと体勢を変えて、リルムをベッドに組み敷いた。小さな顎に手をかけて、少しだけ上向かせる。
「だからもう一回しようぜ」
「ええー? 明日は朝早いって言ってたんじゃ」
「そんなの遅らせりゃいい。定期船じゃねえんだからな、俺の飛空艇は」
反論はそのまま口唇で塞いだ。リルムの腕がセッツァーの首の後ろに回される。難しいことは今もよくわかってはいない。惚れただの腫れただの、ふわふわとしていてはっきりとした言葉としては出てこない。それでも、リルムの肌はこれからも触れていたい。くるくる変わるその表情を見ていたいし、隣にいてほしい。他の女はどうでもいい。
それでいいだろうと、セッツァーは湧き上がる熱に身を委ねた。