コンプレックス
その日、バロンの街の一角にある小料理屋はほんの少し静寂さに欠けていた。
「どうにも騒がしいな。何かあったのだろうか」
周囲のざわめきとは裏腹に、落ち着き払った様子で店内を見渡す美丈夫――飛空艇輸送部隊『赤い翼』の部隊長であるカインは訝しげに呟いた。
テーブルを挟んで彼の正面に座る小柄な女性――ミシディアの長老代理を務めるポロムは落ち着かない様子で「そ、そうですね」とだけ答えて椅子の上ですっかり縮こまってしまっていた。
店内がさざめいている原因は目の前にいる男性にあることは明らかだったからだ。この小料理屋はカインが兵学校に通っていた時代からあるもので、セシルとローザを伴った幼馴染三人組でよく訪れていたという話は聞いていた。その頃から三人組は店の有名人で、ローザがどちらを選ぶのかなどといった賭け事まで密かに行われていたらしい。
やがて月日は流れて二度の月の戦役を経て現在に至る。試練の山で修行を積むカインに幼い恋心を抱いてから幾星霜、気付けばカインの行きつけだったという小料理屋で食事を共にするような仲になってしまったことは未だに夢のようだ。
それは店主を含めた常連客にとっても同様らしく、「カインさんが女性と食事……?」だの「あの女性は誰だろう」といったささやき声が随所から聞こえてくるので、ポロムは顔から火が出そうであった。当のカインは周囲の声など全く聞こえぬといった様子で涼しい顔をして食前酒を口に含み、優しい笑みと視線をポロムに向けている。
「あ、あのカインさんは気にならないのですか」
「何がだ?」
「その、お店の中がざわめいているのはカインさんにご注目が集まっているからだと思うのですが……」
「そうだろうか」
心底わからない、という顔をしてカインは周囲を見渡した。カインの顔が向く方向にいる客は一斉に視線を逸らしていたのがポロムにははっきりとわかったが、カインは全くわからないようだった。
どうしてこの人は、他者の振る舞いには敏感なのに、自分に向けられる視線にはこうも鈍感なのだろうとポロムは少しだけため息をついた。
店主が料理を運んできた。テーブルに置くついでに、カインに声をかける。
「お久しぶりですね、カインさん」
「ああ、覚えていてくれたのか」
「忘れるはずなどありませんとも。お連れの女性は?」
「俺の恋人だ」
臆面もなくあっさりと告げるカインに、ポロムはこれ以上ないほどテーブルの下に隠れたい気持ちになった。店主がちらりと向ける視線にどことなく品定めをするような雰囲気を感じて、「ミシディアの白魔道士、ポロムですわ」と小さく自己紹介をするのが精一杯だった。
どうぞご贔屓に、と店主は人懐っこい笑顔を浮かべて、そのまま立ち去った。再びテーブルを挟んでカインと見つめ合う形になり、ポロムは心臓が口から出そうになるのを何とか悟られまいと唇をキュッと結んだ。
「どうした、どこか具合でも悪いのか」
カインが心配そうに覗き込んでくる。何とか平静を装っているつもりなのに、カインにかかれば一瞬で看破されてしまう。何でもないと答えたところで、「ならばなぜそんな顔をしている?」などと問いただされるのがオチだろう。ポロムは少し溜息をついて、辺りに視線を巡らせつつ、声を潜めた。
「その、やっぱりカインさんはすごい方なのだなあと改めて思ったんです」
「そうだろうか」
「ええ。だって、このお店に入った瞬間から皆さんカインさんに注目しきりですし、何年もバロンを離れていらしたというのに店主様はカインさんを覚えておられるくらいですもの……」
そこまで口にしたところで、ポロムは膝の上の小さな手をキュッと握りしめた。
「……私のような、何もないただの白魔道士など、釣り合わないなあと実感させられてしまったのです……」
消え入りそうな声だったが、店内のざわめきの中でもカインの耳にはハッキリと届いたようで、どう返事をしたものか思案するような表情を見せた。
ああ、またカインさんを困らせてしまった、とポロムは思った。いつもこうだ。
カインとは5歳の頃にあった月の戦役で間接的に知り合って以降、大戦後にカインが試練の山で己と向き合う修行に励んでいる間、長老の命でパロムと共にお目付け役を兼ねてしばしば会っていた。一見とっつきにくい言動と素顔の見えない竜騎士の兜には内心面白くないものを感じていたが、その下にはセシルと同じくらいの――それ以上かもしれない――情の深さと、情熱が込められていることに気付いて以降、ポロムの幼い恋心はカインに向けられることとなった。勿論、叶うことなど一生ありえないだろうと諦めていた。ところが、何の因果か間違いか、カインはポロムの想いを受け入れてくれたのだ。
「俺は君を愛している」
そんな夢のような一言と共に。しかし、カインがどうしてポロムの想いを受け入れてくれたのかはいくら考えてもわからない。カインの性格を考えると、いい加減な気持ちから自分を選んでくれたわけでないことだけはわかる。そう信じたい。だが、ポロムはどうしても自信が持てなかった。カインはどこまでもポロムに優しい。その優しさが、子供の頃から感じていたものと何が違うのかがわからない。それがポロムを不安にさせていた。
そもそも、自分は長老にミシディアを託された身とはいえ、修行中の半人前の白魔道士だ。カインのかつての想い人であり、今や伝説の白魔道士と言っても過言ではないバロン王妃ローザとは外見も魔力も、その優しさも何もかも追いついていない。追いつける気など、微塵もしない。
「ならば、俺のような裏切り者の竜騎士など、お前にはもっと釣り合わないだろうな」
「え?」
ぐるぐると考えては落ち込んでいくポロムの耳に飛び込んできたのは意外な一言だった。目を丸くしているポロムに、カインはフッと柔らかな笑みを浮かべている。ポロムの好きな表情の一つだ。
「忘れたか? 俺は家族同然の幼馴染を二度も裏切った上に、お前の信頼すらも一度は裏切っている。そんな俺がお前とこうして結婚を前提に交際など、おこがましいと思わんか?」
「そ、そんな! それは全てカインさんの意思ではありませんでしたわ!」
「いいや、俺自身の意思だ。増幅されたとはいえ、紛れもなく心の奥底で抱いていた意思だ。ポロムの信頼を裏切ったのも、俺自身であることに違いはない」
「で、でも……」
穏やかな口調で語るカインに、上手く反論する言葉が思いつかない。
「しかも困ったことにな、俺はここまでお前に相応しくない男だと自覚しているというのに、この期に及んでまだお前のそばにいたいと願っているんだ」
「え……」
ポロムが顔を上げると、頬をわずかに染め、柔らかな笑みをたたえながらも真剣な瞳のカインと目が合った。「フッ、食前酒で酔ったようだ」と言い訳じみたことを口にしていたが、嘘だろう。熱のこもった瞳にはポロムに対する情愛が溢れているのが如実に感じられて、ポロムは胸がドキドキと高鳴るのを抑えられなかった。
「……ダメだろうか?」
掠れるような声でそう言われては、堪らない。ポロムはブンブンと首を横に振って、テーブルの上から伸ばされたカインの手を柔らかく握った。
「私は、カインさん以外には考えられません。……ずっと昔から」
「なら、不釣り合いなことなどない。俺もお前も同じ想いからこうしてそばにいることを選んだのだからな。言いたい奴には言わせておけばいい。大事なのは、どうしたいか、それを貫き通したいか、それだけだ」
「……はい!」
瞳に少し涙を浮かべて微笑むポロムがあまりに可愛らしく、カインは涙を拭ってやるとそのままポロムの手のひらに口づけた。
「か、カインさん……見られちゃいますよ」
「言っただろう? 言いたい奴には言わせておけばいい。俺はポロムにこうしたいと思ったから、こうした。心配するな。これ以上は、ふたりきりのときに、な」
「こ、これ以上って……」
「手のひらへのキスだけで満足するとでも思っているのか? お前も満足できるのか?」
「い、いいえ……」
上目遣いのカインに気圧されて、真っ赤になりながらその問に対して答えたところで、自分が何を言ったのかに気づいてポロムは更に顔を赤くした。だが、手のひらへのキスだけで満足などできないのも事実だ。
「カインさんてば、意外と積極的ですのね」
「あのときとは違う。今は、お前が俺の想いを受け止めてくれる。だから、思いのままに愛することができる。正直、自分でも驚きだがな」
ハハ、と歯を見せて笑うカインにポロムもくすりと笑った。
白魔道士としてはもちろん、カインの恋人としてもこれからまだまだ修行が必要そうだ、とポロムは悟った。それはなんてしあわせな修行なのだろう。幼い頃からずっと望んでいた修行を積めるしあわせに、ポロムはしばし身を委ねた。店内のざわめきや視線は、いつの間にか気にならなくなっていた。
運ばれてきた食事はとても美味しく、ふたりはまた来ようと約束しあって、手を繋いで店を後にした。その後、ふたりでデビルロードに入っていく姿が目撃されたが、カインが戻ってきたのは翌朝のことであった。
堂々と重役出勤をする聖竜騎士に「僕にもお前にも立場があるからね」と形ばかりの説教を笑いながらするバロン王の姿があったとかなかったとか。